教えのやさしい解説

大白法 615号
 
機を知る(きをしる)
「機」とは
「宗教の五綱(ごこう)」のうち、二番目に当たるのが機です。
 機とは、衆生が仏の教えを受けとめようとする心の状態、また教法(きょうほう)に対しての衆生の能力をいいます。
 釈尊在世(ざいせ)に舎利弗(しゃりほつ)は、洗濯業(せんたくぎょう)の者に数息観(すそくかん)(出入(しゅつにゅう)の息(いき)を数えることによって心の散乱を収(おさ)め、心を静め統一(とういつ)する観法)を教え、鍛冶職(かじしょく)の者に不浄観(ふじょうかん)(肉体や外界(がいかい)の不浄(ふじょう)な様相(ようそう)を観じて、煩悩(ぼんのう)・欲望を取り除(のぞ)く観法)を教えたため、それぞれが一向に悟(さと)りに至りませんでした。そこで釈尊は洗濯業の者に不浄観を、鍛冶職には数息観という、相応(そうおう)の修行方法を教えて道(みち)を悟らせたと言われます。このように、法を説くには衆生の機根(きこん)・機応(きおう)を知ることが大切です。
 日蓮大聖人は『教機時国抄』に、
「二に機とは、仏教を弘(ひろ)むる人は必ず機根を知るべし」(御書 二七〇n)
また『佐渡御書』に、
 「正法は一字一句なれども時機に叶(かな)ひぬれば必ず得道なるべし。千経万論(まんろん)を習学すれども時機に相違(そうい)すれば叶ふべからず」(同 五七九n)
と、法を弘めるには、機根を知ることが大事であることを御教示されています。
 「機」とは「可発(かほつ)の義」、仏の教えを受けて発動する衆生の心の状態をいい、また「根(こん)」とは仏道に対する衆生の能力をいいます。

 「機」の三義(さんぎ)
 天台大師は『法華玄義(げんぎ)』の中で、「機」について、
「機に三義あり、一には機は是(こ)れ微(び)の義なり。二には機は是れ関(かん)の義なり。三には機は是れ宜(ぎ)の義なり」
と説かれています。
 一の「微の義」とは、「微妙(びみょう)な心の動き」ということで、仏を感ずる衆生の微妙な心の動きをいいます。
 二の「関の義」とは、仏と衆生との関(かか)わりということで、仏の慈悲に関わることによって、衆生の善心が生(しょう)ずることをいいます。
 三の「宜の義」とは、衆生には千差万別の機があり、その宜(よろ)しきに従って、仏は種々の法を説くということです。
 これらの三義は、衆生その人その人の仏道に対する関わりを説き明かしたものですが、同時に、また衆生の「機」は、衆生に応(おう)じて出現し、法を説く仏の応(おう)と切り離しては考えられないことも示しています。

「熟脱(じゅくだつ)の機」と「下種の機」
 一切衆生の機根を大別(たいべつ)すると「熟脱の機」と「下種の機」に分けられます。
 日寛(にちかん)上人は『報恩抄文段(もんだん)』に、
「第二の機とは、正像(しょうぞう)二時は本已有善(ほんいうぜん)の故に下種の善根を熟(じゅく)し、末法は本未有善(ほんみうぜん)なる故に、直(ただ)ちに三大秘法を以(もっ)て下種と為(な)すなり」(日寛上人 御書文段 四六三n)
と、二種の機根について示されています。
「熟脱の機」とは、仏の最初下種益(やく)の化導(けどう)を受けた折(おり)に逆縁(ぎゃくえん)となり、また退転したために、後(のち)に熟益(じゅくやく)・脱益(だつやく)の化導を受ける衆生の機根をいいます。
これらの衆生は、已(すで)に久遠の昔に下種をされて善根を有(ゆう)しているので「本已有善」の衆生と言います。すなわち釈尊の在世や正法(しょうぼう)時代・像法(ぞうほう)時代に生まれ、仏道を行(ぎょう)じた機根の人たちです。
 これに対して「下種の機」とは、仏種(ぶっしゅ)を未(いま)だ心田(しんでん)に有していない荒凡夫(あらぼんぶ)のことで、これら衆生は久遠の昔に仏種を下(くだ)されておらず、成仏のための善根を有していないので「本未有善」の衆生といいます。すなわち末法の衆生のことです。
 末法(まっぽう)は五濁悪世(ごじょくあくせ)の時代であり、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒強盛(ごうじょう)の衆生が充満(じゅうまん)する時代です。したがって、機根の低い人ばかりが充満する末法においては、熟益や脱益の釈尊の仏法ではなく、下種仏法すなわち大聖人の三大秘法の教えでなければ、衆生を救っていくことはできないのです。
 つまり末法の衆生は、久遠元初(がんじょ)の御本仏の下種の妙法をもって、折伏逆化(ぎゃくけ)すべき最初下種の機縁(きえん)であると知ることが「機を知る」ということなのです。

 随機(ずいき)説法は誤(あやま)
 創価学会は「仏法は民衆が主役です」などとしきりに言っていますが、これは「機」偏重(へんちょう)の我見(がけん)です。
 日蓮大聖人は『撰時抄』に、
「機に随(したが)って法を説くと申すは大(だい)なる僻見(びゃっけん)なり」(御書 八四六n)
と、時(とき)を無視(むし)して、衆生の機根に応じて法を説くことは大きな誤りであると仰せです。
 大聖人の御在世にも、各宗(かくしゅう)の祖師(そし)は、衆生の機根を主とし、法を従(じゅう)として、それぞれ勝手に適当(てきとう)と思われる法を説いています。
 もちろん一切衆生救済(きゅうさい)のために仏法が説かれたことは間違いありませんが、末法という時と、その時代の衆生は本未有善の衆生ですから、御本仏が御出現あそばされ、南無妙法蓮華経の大法(だいほう)を一切衆生に与えられたのです。よって、その妙法を受持信行するところにのみ、私たち末法の衆生の成仏があるのです。
『教機時国抄』に、
「謗法の者に向かっては一向に法華経を説くべし。毒鼓(どっく)の縁と成(な)さんが為なり。例せば不軽(ふきょう)菩薩の如し」(同 二七〇n)
と仰せのように、末法においては久遠元初の仏が出現して、妙法をもって折伏逆化(ぎゃくけ)するべき最初下種の機縁となっていることを知ることが機を知ることです。
 一切衆生の機根は千差万別ですが、これら衆生が成仏できるのは、大聖人の南無妙法蓮華経の仏法によってのみ可能なのです。
 この強い確信のもと自行化他(けた)の唱題に励み、広宣流布達成に向けて、いよいよ折伏を実践してまいりましょう。